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【VENONA】 CIAによる「ヴェノナ」文書概略

【出典】https://www.cia.gov/library/center-for-the-study-of-intelligence/csi-publications/books-and-monographs/venona-soviet-espionage-and-the-american-response-1939-1957/forward.htm

https://www.cia.gov/library/center-for-the-study-of-intelligence/csi-publications/books-and-monographs/venona-soviet-espionage-and-the-american-response-1939-1957/preface.htm

Venona: Soviet Espionage and the American Response, 1939-1957
ヴェノナ: ソ連諜報活動と合衆国の対応 1939-1957

序文

1948年夏、ある報道が蒸し暑いワシントンの気温を更に上昇させた。その報道は「金髪のスパイ女王」と派手に伝えられ、「第二次大戦下の米国内に張り巡らされたソ連諜報網の実在を示す確たる証拠を、その女スパイが三年前の時点で連邦捜査官に提供している」というものだった。日を置かず、人々は「Elizabeth Bentley」という女スパイの名前を知ることとなった。Bentley と元共産党工作員Whittaker Chambersの2名が議会証言として頻繁に告発を繰り返したからである。

共和党議員や共和党有力者達は二人の告発内容から、「ルーズベルト・トルーマン政権下における容共政策の横行と国家安全保障の軽視である」と非難した。顔に泥を塗られたことになる政府内外の要員や、再選を目指すトルーマン政権に風当たりが強くなることを恐れた民主党は「BentleyとChambersが伝聞や中傷を繰り返しているに過ぎない」と言い募っていた。

「本当の事実」を探り当てる決定的手掛かりとなったかもしれないBentleyのある重要な証言は当時の過熱する報道に紛れ、世論には置き去りにされてしまった。Bentleyの重要な証言とは米国連邦大陪審におけるもので、「ソ連の極秘暗号が大戦下の米国諜報機関によって解読される寸前にあることを知った米国補佐官が諜報員を通じソ連側にその事実を密告していた」というものである。この逸話が冷戦下における米国側の著しい戦果の一つとして、 巷間で30年の間まことしやかに語られることとなった。

Bentleyの告発と、それを受けて世間で高まる論争は、アメリカが経験した諜報戦の特徴をよく捉えており、国家総動員体制の総力戦下において「国内治安」をいかに維持するか、という切実な課題とも関わっていた。欧米の民主主義は「国民の自由や法律の適正運用」と「ファシスト政権や共産主義政権による潜入工作無力化」をいかに両立するかという問題で、60年の長きに渡って葛藤し続けてきた。

二十世紀半ばのソ連は、諜報員経由で外国機密に潜入し、情報を収集する「人的諜報」を得意とした。合衆国政府は、外国の暗号電文を傍受し分析する「通信諜報」を得意とした。冷戦初期、二大国が誇る諜報活動が真っ向からぶつかり合った。その衝撃は60年経った今でもまだ余韻を残している。誰も知らず見ることもなかったこの激闘を如実に物語るものが「ヴェノナ」である。

「ヴェノナ」という用語は特定の暗号解読成果に対する閲覧を制限するため、対象となる文書に押印された任意の符牒のことである。「ヴェノナ」という符牒で書庫化されたことにより、欧米の防諜専門家は1940年から1948年の間に交わされた2,900件に及ぶソ連の外交電文を読むことできるようになった。これらの暗号電文にはいずれも、解読作業に対して、ある脆弱性を露呈していた。それは日付、出典、話題などが異なる電文間で共通していることなどではなくて、各電文が固有で独立していることに由来する脆弱性であった。

合衆国と連合国諸機関は原文の暗号解読とそれに続く難解なパズルのような判読作業に40年以上を費やした。この暗号解析作業が公式に終結する1980年まで、事情を知る合衆国諜報機関の関係者にとって「ヴェノナ」という符牒はこの 【書庫化された文書の解読解析を意味する用語】 となった。

潜入工作に晒されるアメリカ

連合国と枢軸国双方にとって、1940年代の合衆国には格好の諜報対象が存在した。米国政府の戦略計画と米国の軍需産業や実験施設で生み出される研究成果である。ベルリンと東京、そしてモスクワはあらゆる手段でそれらを入手しようとしていたが、枢軸国サイドの北米における諜報活動は目ぼしい成果を挙げられなかった。枢軸国側のスパイ網と諜報員は大戦初期において既に、連合国軍防諜機関および民間防諜組織によって把握されていたからである。一方、ソ連の諜報活動は米国内のみにとどまらず、複数の局面で目覚しい成果を挙げたと言える。1940年代から50年代のアジア地域における軍事的緊張と不安定化はまさしく、ソ連の幹部諜報員らに導かれて現出した。この状況形成には、モスクワの諜報作戦群に遅れて情報収集能力を増大させてきた西側諜報機関も関与している。

米国内での諜報作戦が悉く潰えた枢軸国側諜報機関と違い、ソ連側諜報機関の成功にはいくつかの理由があった。第一の理由として、ソ連の諜報機関は統制の取れた作戦行動や豊富な情報源といった点で、枢軸国側の諜報機関より【優秀】だったことが挙げられる。第二の理由としては、米国の同盟国という立場を利用し、多数のソ連政府関係者を諜報員として米国本土に展開配置できたことが挙げられる。これによって米国内での諜報戦はソ連にとって優位に推移した。これら二つの理由よりも更に大きいものは、多くのアメリカ人がこのロシアを同盟国の戦友として物的支援するのみではなく、言論の面でも支援するべきだと考えたことである。この第二次大戦下における米ソは蜜月関係にあった。この期間には実際に米国市民がソ連側に機密事項を自発的に漏らした事例も発生した。ソ連政府関係者においては、米国側からの高度な情報開示と厚待遇を満喫した。最後の大きな理由としては、米国内で展開済みのスパイ網が「アメリカ合衆国共産党(CPUSA: 以下、米国共産党と記述)」の組織力や基盤を有形無形問わず活用できたことが挙げられる。モスクワは米国内の傘下組織を統括することで機密情報を効率的に収集した。「共産主義インターナショナル(コミンテルン)」が米国共産党を監視し、党内に内密で設置された諜報部署を統率管理した。

世界大恐慌は米国国民に資本主義の衰退を予感させ、ヒトラー・ムッソリーニ体制に対抗するスターリンの姿は、ファシズムに対する世界唯一の防御壁はロシアで進捗する社会主義的実験であると、何千人もの生粋の米国人に錯覚させることになった。こうした状況下で1930年代後半には米国共産党の勢力が頂点に達し、米国社会である程度の影響力を保持するに至った。

米国共産党の指導層と複数の党内有力者が米国内各地で政治や経済産業に関わる情報収集に携わった。それらの情報はソ連側諜報機関に集約されることになる。1939年の独ソ不可侵条約でソビエト連邦共和国自身がナチによる侵略の片棒を一時的に担ぐ形となったため、合衆国共産党は1/3の党員を失うことになるが、中枢部は隠然たる影響力を維持していた。これに加え、領事館付武官として派遣されたソ連軍(GRU)諜報将校がコミンテルンと協力し、共産党の息がかかった米国政府内や米国企業内の諜報員と連携していた。

ソ連が保有するもう一つの諜報機関-NKVD(後のKGB)は独自の諜報手段を確保していた。NKVDとはソ連の秘密警察で民間団体に擬装した諜報機関である。NKVDは長い間、内部粛清と党内抗争による亡命者に対する秘密工作に忙しかった。これらの活動は少なくとも米国内ではGRUの陰に隠れて目立たないものだった。このGRUとNKVD二者の相関関係は大戦中において崩れることはなかった。

KGBとGRUは米国内に構築済みの合法的諜報網と違法な地下諜報網を同時に駆使した。合法的諜報網を使用する場合は外交官などがその任務に就いた。ソ連側諜報員として外交官の法的に隙のない身分を利用できるからである。ここで重要なのは外交官が諜報員を兼ねているのではなく、専門の教育訓練受けたソ連側幹部諜報員が外交官に擬装して米国に潜入しているという事実である。これら合法を装った幹部諜報員の展開先としては、外交官や貿易関係者、そして報道関係者などが挙げられる。展開先の具体的な実態を示すと、諜報員達は「アムトルグ貿易会社(米国による同盟承認前にはソ連貿易代表部として機能)」、「ソヴィエト連邦購買委員会」、「タス通信」などの適法組織内に隠蔽隔離された 【居住区】 を与えられて諜報活動に従事した。以上のように身分や適法性を担保された潜入形態と対照的であったのが、違法な地下諜報網である。ソ連による地下諜報網はソ連上層部との関係を一切表には出さなかった。このような地下組織の運営に携わったのはソ連からの不法入国者である。ここでも留意しておくべき点は、不法入国者が諜報組織に吸い上げられたのではなく、ソ連の職業的諜報員が明確な意図を持って米国に不法入国してきたということである。不法入国者であるなら、身分や氏名などは好きなだけ偽れる。

更に大胆なことには、GRUやKGBから複数の諜報員が米国共産党の幹部として潜伏しており、偽装党員としてソ連諜報員が従事する極秘任務は多かれ少なかれ、米国共産党指導部やコミンテルンも把握了承済みであった。一例を挙げるなら、KGB幹部であるJacob Golos(コードネーム: SOUND)はソ連資本の合法企業「World Tourists」をニューヨークで経営する傍ら、米国共産党中央統制委員会に勤務していたとされる。

Golosの愛人、Elizabeth Bentley(コードネーム: SMART GIRLもしくはMYRNA)は、身分素性の合法的迷彩により米国社会で表立って行動できる諜報作戦群から離脱し、1930年代後半には地下活動に従事するようになっていた。Bentleyはかいがいしく愛人Golosの諜報活動と企業活動を「陰から」支えた。まさに「内助の功」である。

スターリンが企図した諜報対象は4つに絞られていた。スターリンから直接指示を受けたのは34歳のKGB第一総局主任Pavel M. Fitinである。その具体的な指示内容とは:

1.ヒトラーによるソ連侵攻について米国が把握している機密情報
2.ロンドンとワシントンが秘匿している今次大戦の真の目的、特に欧州における二次戦線について
3.連合国内においてヒトラー政権と単独講和を探ろうとする徴候の有無
4.米国における科学技術開発の成果、特に核兵器開発

の4つである。

第二次大戦中の米国内におけるソ連側現場担当諜報員によって収集された情報は多数の諜報専従将校らを経由してモスクワに集約された。現場担当諜報員の上長にあたる諜報専従将校らは中央に報告を上げ、新たに中央から出てくる命令や諮問事項を現場担当諜報員に下ろした。米国内での実際の諜報活動は正規入国者としてニューヨークやワシントンに潜伏していたVassili M. Zarubin(コードネーム: MAKSIM)や不法入国者として長い経歴を持つIskhak A. Akhmerov(コードネーム: MERもしくはALBERT)などの老練なスパイの手によって遂行された。しかし米国内に展開された諜報員群が1930年代のスターリン粛清によって人員不足となったため、新しく補充された作戦要員の中には「ぎこちない新兵」をそのまま絵に描いたような人員もいた。ソヴィエトから派遣された新人諜報員の多数にとって、米国は初めての海外任地であった。 Elizabeth Bentleyは”ジョン”なる偽名を持つ新人諜報員(本名: Anatoli A. Yatskov、コードネーム: ALEKSEI)に初めて会った時の印象を以下のように語った:

『痩せて、血色も良くない金髪の若者。身長はちょうど私と同じくらい。欧州製丸出しでサイズ違いの似合わない服を着て・・・。ろくに食事も摂ってないような貧相な見てくれはソ連新人諜報員の特徴でした。彼の話す英語は片言といっても良い位で、話している内容を理解するのにひどく苦労しました。アメリカ風の生活には見向きもせず、完璧といって良いほど無視していました』

この"ジョン”は、その体裁の悪い諜報員デビューにも関わらず、原子力爆弾に関わるソ連の諜報作戦において主要な役割を担うことになる。

大戦後期、特に1943年3月にスターリンがコミンテルンを解体した後には、GRUとコミンテルンによって構築された諜報資産やスパイ網をKGBが引き継いでいった。ソ連政府組織の再編 によって、KGBが政治的任務も担当するようになる一方で、GRUはより純軍事的な科学技術情報の収集に注力していくことになった。そして米国共産党との共同作戦に従事していた諜報員群はソ連の直接管轄下に置かれることになる。この整理統合によって米国内で順調であったソ連の諜報作戦群に大きな危機が訪れることになった。米国内におけるソ連諜報員と作戦概要について知り尽くしていたBentley(米国国籍)とその他複数のスパイ達(米国国籍)が一連のソ連政府組織再編と米国内諜報組織の整理統合に憤慨したのである。

遅い対応

1930年代後半、世界中で猛威を振るいつつあった全体主義者や共産主義者らによる破壊工作に米国は懸念を募らせていた。欧州戦線の概況と独ソ不可侵条約締結という状況から、J. Edgar Hooverを長官とするFBIは、ロシア人と関わりを持ち、疑わしいと思われる民間人や組織を調査対象のリストに載せた。米国人と外国人共産主義者が米国の偽造旅券で海外渡航しているという国務省の内偵結果を受けて、連邦捜査局(FBI)特別捜査官が複数の米国共産党関連施設を強制捜査した。1939年のことである。そこで押収した十分な証拠をもとに、米国共産党総書記 Earl Browderを旅券偽造の容疑で拘束した。

1940年、英国ウーリッジ王立兵器廠でスパイ事件が発生した。この事件を担当したイギリスとカナダ当局の捜査線上に、ニューヨーク正規滞在者 Gaik Ovakimian(KGB上級将校、コードネーム: GENNADI)が浮かび上がってきた。FBIは Ovakimian の身辺調査を開始し、1941年5月に Ovakimian を外国人登録法違反の容疑で逮捕した。この諜報戦初期の捜査で、ソ連スパイ組織や諜報手段について得られた情報は諜報戦が本格化した大戦後期以降に非常に役立つものとなった。

しかしながら当時の米国当局は現代からは望ましかったであろうと思われる断固たる対処に踏み切らなかった。その時点で少なくとも米国内のソ連側諜報組織に3名(Alexander Orlov, Walter Krivitsky, Whittaker Chambersの3名)の転向者(寝返り)が発生しており、米国政府関係者による十分な保護の下その3名の綿密な事情聴取を終え、捜査当局にも比較的新しい情報がもたらされていたにも拘らずである。更に1941年6月のドイツによるソ連侵攻によってソ連に対する米国の対応は反転した。米国国務省はモスクワと素早く合意し、Ovakimianの出国を許可した。同様に、ルーズベルト大統領は「同盟関係」という観点から1942年5月、共産主義者Browderの刑を減刑した。FBIは調査監視の手を緩めることはなかったが、強制捜査や訴追は取りやめになった。

どのような対外諜報機関であれ、外国に派遣された諜報員との間に安全な通信手段を確保しておく必要がある。ソ連の諜報機関は外交で使用する無線通信機を米国内複数の都市に内密で配備していたが、緊急時のみに使用されるものだった。よって、KGBとGRUの米国内支局は商業用電報を使用することもあり、大量の書類が詰まった外交文書用郵便に諜報員が収集した情報を忍ばせて郵送することもあった。

1939年、欧州における戦況が怪しくなりかけたころ、米国陸軍はソ連の暗号電文収集を開始した。米国陸軍通信傍受部(SSA: 国家安全保障局NSAの前身)のオフィスにはすぐさま何千のもの通信電文の山が積み上げられることになった。1942年6月に米国海軍とFBIと間で交わされた協定によって、諸外国の外交や軍事に関わる暗号の解析を米国陸軍に委任することとなった。こうした経緯で米国陸軍が外交通信を担当するようになる。

SSA解析官は直ちにアーリントンホール(Arlington Hall: バージニア州北部、陸軍通信傍受部の本部施設、以下「アーリントンホール」と記述がある場合はこのSSAもしくは後継のASA、AFSAのこと)で収集されたソ連外交文書の判読可否について調査を開始した。それまでの十年間は陸軍と海軍がそれぞれ単独でソ連側の符牒や暗号を分析していたので余り成果は挙がらなかった。日本陸軍参謀とベルリン/ヘルシンキ駐在武官との間で1942年に交わされた電報を解読した結果、フィンランド人の優秀な暗号解読者がソ連の軍事暗号解読について一定の成果を挙げていることが分かった。その成果とは、ソ連の暗号で解読部分と未解読部分を抽出整理し、解読不可能な電報の暗号パターンを特定しており、この成果はドイツから日本軍にも提供されていた。この情報はSSAによるソ連側電報の検証で即座に反映されたであろう。1943年2月1日、米国陸軍諜報部(MID)特別局主任 Carter Clarke大佐の命令により、SSAはソ連の暗号電報を解析検証する小規模な作業を開始した。Clarke自身はモスクワとベルリンの単独講和を懸念しており、陸軍上層部にそのような事態を警告するための証拠を探したかったようである。

アーリントンホールの民間人部隊にバージニア州の学校教師Gene Grabeelが派遣され、ソ連側外交文書の解読作業に加わった(彼女はその後36年間、このプロジェクトに従事することになる)。彼女とその他の民間人には保存済みの電報と通信網から逐次入電される電報の整理が割り当てられ、何ヶ月もその作業に関わった。彼女等はフィンランド人の暗号解読者(前述日本軍の通信傍受で判明した成果)が特定していた暗号パターンを整理検証し、独立した暗号パターンが5つ存在することを突き止めた。

半分以上の電報は彼女等が「Trade」という名をつけた暗号パターンを使用していた。「Trade」という暗号パターンは文字通り、「アムトルグ貿易会社」や「ソ連購買委員会」による電報で、ソ連軍需物資および貸与品の輸送に関わるものであった。他の4つの暗号パターンはKGB、GRU、海軍GRU、外務省によって発信されていたが、これらの発信者が特定されたのは1940年代半ば以降である。

モスクワは既に高位の諜報員から敵国および同盟国でソ連の外交電報解読が進捗中であるとの報告を受けていた。1941年6月には、フィンランド軍がペツアモ(Petsamo)に在ったソ連領事館跡から焼け焦げた暗号符号表と暗号方式に関わる文書を回収済みで、1941年末までには、ドイツが同盟国フィンランドによって回収されたソ連の暗号符号表を入手しようとしている、とベルリンのソ連諜報員によってモスクワに報告が上がった。報告された状況をモスクワは意に介さなかった。なぜならソ連が使用する「ワンタイムパッド法」の秘匿性は符号によって確保されるものではなく、暗号化方式それ自体によって確保されるものだからである。漏洩したKGBの符号表はソ連において1943年まで取り替えられることはなかった。もう一つの重要な情報は英国諜報将校であり、ソ連の諜報員(二重スパイ)であったH.A.R. "Kim" Philbyによって1944年にもたらされた。「英国の暗号解析部署がソ連の暗号を注視し始めた」とKGBに報告したのである。

Philbyはおそらく、米国側のソ連暗号解読作業については何も報告しなかったであろう(合衆国の暗号解読部署と英国該当機関がソ連の暗号伝文について連携するのは1945年8月からである)。しかし、KGB上層部はホワイトハウス補佐官Lauchlin Currieが「米国側がソ連の暗号を突破寸前である」と諜報員を通じて密告してきた時(おそらく1944年春)はさすがに焦ったかもしれない。Currieはホワイトハウスの通信諜報部署に出入りが可能で、そこで「米国陸軍通信傍受部(SSA)が間もなくソ連の暗号解読に成功する」というかなり楽観的な噂を耳にしたのかもしれない。Currieのタレコミはソ連の暗号開発者を警戒させるには少し曖昧すぎたが、モスクワの上層部はそれに反応したようである。この頃の暗号に見られた変化は表面的な修正のみで上層部を満足させる為に実施されたように見える。1944年5月1日、KGBの暗号書記官が伝文の始点を示す新たな符号を電報で使用し始めたからである。この変更は皮肉にもSSAの解読作業を推し進めるものとなった。

Venona計画の解読過程

「Venona」計画が突破した伝文は符号化された上に暗号化されたものであった。ソ連の暗号方式を開発した暗号研究者は「ワンタイムパッド(以下、OTP乱数表)」による暗号化で完全な情報秘匿性を確保しようと企図した。「完全な情報秘匿性」とは、根幹となる符号表を敵方が入手したり、亡命した暗号書記官が事情聴取された(Igor Gouzenkoなどのように)としても揺るがない「情報秘匿性」のことである。しかし、そのように符号表や暗号作成者に依存しない暗号伝文は、その伝文それ自体への解析に対しては脆弱性を露呈していた。「Venona」計画の解読作業はこの脆弱性を突いた。1943年から46年にかけて見られた「Venona」計画の進展は、ソ連の符号表や暗号化前の平文を入手して達成されたものではなく、純粋な分析的手法に基づいて得られたものだった。1944年から1946年の暗号伝文の大半は、アーリントンホール(SSA)の暗号解読者兼言語学者 Meredith Gardner によって解読復元された。Meredith Gardnerは古典的暗号解読法に従い、何年も掛けて独自に作成した"符号表"を作り上げた。

ソ連の暗号書記官が暗号伝文送信時に実施する作業は、符号表(一般的な単語や常套句が4桁の数値で表現された「辞書」のようなもの)を元に文字を数値に還元していくことである。平文を数値でコード化したあと、暗号書記官はその数値コードを一桁づつランダムな数列に変換し、更に擬装する。二回目に数列変換されたこの工程は「暗号鍵」もしくは「復号鍵」と呼ばれ、このランダムな数列を「OTP乱数表」として発信者と受信者双方が共有するものであった。「OTP乱数表」は袋に封入され、定期的に小包として領事館に届けられた。「OTP乱数表」は1ページに付き、5桁の「暗号鍵」60個で構成され、いつも左最上段から順に使用された(使用するパッドのページ番号はたいていの場合、伝文のどこかに隠されていた)。暗号変換を必要とする伝文の増大により、ソ連の暗号書記官小包で送られてくる「OTP乱数表」を使い果たした。

このような暗号復号方式の情報秘匿性は、「OTP乱数表」の「暗号鍵/復号鍵」組合せが無作為であること(つまり、組合せが予測不可能であること)と、発信者と受信者が共有する「OTP乱数表」に同じ組合せが他に存在しないという唯一性にあった。ソ連の各組織や機関は彼ら自身の符号表を使用した。符号表の改訂サイクルは約2,3年であったが、符号変換の迅速化、利便性のために情報秘匿性の確保が犠牲になった場合は改訂時期も先延ばしになったであろう。

ソ連側暗号伝文の脆弱性は、乱数発生器の誤作動や暗号書記官による「OTP乱数表」の転用の結果などではなくむしろ、同じ「OTP乱数表」重複印刷の結果であった。ソ連の社会主義体制にとっては苦難の時であった1942年初頭の2、3ヶ月間、ソ連内KGBの暗号研究センターは理由不明ながら、35,000ページ以上に渡って同一の「暗号鍵」と「復号鍵」を印刷し、それらをまとめた「OTP乱数表」を発行した。アーリントンホール(SSA)Richard Hallock中尉は「Trade」という名で分類された暗号伝文を解析し、異なるOTP乱数表から同じ「鍵」の流用(ページ数は違う場合がある)が集中的に発生している証拠を導き出した。この結果から見かけ上は唯一性を保つが同じ「鍵」ページを持つ2組のOTP乱数表が作成された。一回だけの「OTP乱数表」流用が分かっても暗号解読はできないと言う意見をよそに、Hallock中尉とその同僚は「Trade」暗号伝文群を解析し続けた。その結果、外交文書で使用される暗号化方式の解明過程で注目すべき成果を挙げた。このHallockの成果から更に分析を進めた結果、発信日時も使用者も異なる伝文の中から、同じ「鍵」ページを使用した伝文を特定する方法を編み出した。同じ「鍵」ページの使用は1942年半ば頃に始まり、1948年にも一度発生した。が、同じ「鍵」ページ使用を特定できる伝文の大部分は、ソ連の外交通信が著しく増大した1942年から1944年に発信されたものである。

米国側には何時ソ連が暗号の脆弱性に気付いたのか特定できないが、諜報員のWilliam W. WeisbandとKim Philbyがモスクワにタレ込んだと確信している。「OTP乱数表」印刷重複という暗号生成以前の欠陥をソ連が自覚する前に、同じページが重複したまま発行された「OTP乱数表」の殆どは既に使用済みとなっていた。上述の通り、脆弱性を孕んだ伝文は、同じ「鍵」の重複発行により発生し、米国側の暗号電文精査と「鍵」の重複伝文特定で暗号解読者に特定されるに至った。しかし、重複使用部分を特定してもそれは、「解読できるの可能性がある」というだけで、多くの通信伝文は37年を経た今も解読不可能なままである。

Cecil James Phillips
National Security Agency

***

1944年11月、アーリントンホール(SSA)の解析官は、伝文の始点を示す新たな識別子について不明点を解消した。「Trade」伝文群以外の暗号方式については未だに突破口が見当たらなかったが、それら未解読伝文群の手掛かりも見据えて、「Trade」伝文群の解析に取り掛かった。アーリントンホール(SSA)の努力は次第に実り始めた。解析作業の結果、何百もの「Trade」伝文でKGB「OTP乱数表」の暗号鍵と復号鍵が重複使用されていることが判明した。何年にもわたる解析作業により暗号解析官は暗号電文に使用されている「暗号鍵」の数値を特定できるようになった。一方、暗号言語研究者は4桁の数値で符号化された単語や文章の復元に邁進した。

米国当局は大戦中、ソ連による諜報活動の進捗を察知していたが、米国内に多数設置されている防諜機関はまだ連携するまでに至っていなかった。1939年6月の大統領指令で、米海軍情報部(ONI)、米陸軍省戦時情報部(G-2という名で知られる)と連携し、FBIが国内防諜戦の指揮を執ることとなった。これら3部門は合同情報会議(IIC)を設立し、国内防諜活動における独占的地位を保持しようとした。彼らが特に意識したのは、新しく設置された戦時情報局(OSS)とその推進者William J. Donovan少将である。OSSはヨーロッパにおいて優秀な防諜組織(X-2支局)を構築したが、それをアメリカ本土で展開する権限はなかった。

防諜部門間の連携が完全でなかったため、米国防諜組織による戦時下の通信諜報成果の統合と分析、それによる効果的な国家戦略の導出という観点では、各諜報防諜組織がうまく機能したとはいえない。OSSとFBIは独自に暗号諜報作戦を立ち上げたが、どちらも短命に終わった。(OSSもFBIも、偶然にも米陸軍による戦時外交通信傍受作戦「MAGIC(対象は日本)」の成果を開示されていてなかった。)OSSがヨーロッパにX-2支局を開設した目的は、英国諜報機関に接触し、英国がドイツの軍事機密/諜報活動を極秘に傍受解読した成果である「ULTRA」レポートを英国当局と共有することにあった。「ULTRA」レポートは英国諜報機関による高度な作戦群の成果であり、慎重に取り扱う必要があった。しかし、ここでOSSにとって不運であったのは、X-2支局が連合国側でなく枢軸国側の動きを監視していたことである。よって連合国側(特にソ連)との関わりはOSS職員採用時の身元調査ではほとんど調査されなかった。(OSS職員の何人かはソ連のためにスパイ行為を働いた者がいる。)

暗号関係部署の連携不足は米軍内でも同じであった。国内の防諜活動は主にFBIが担った。米陸軍と米海軍双方の通信諜報部署は、調査結果やルーズベルト大統領との会議などはお互いに用心深く内密にしていた。よって大統領執務室以外に、米国政府各機関によって成し遂げられた情報収集/諜報活動の成果(防諜に役立つ情報は言うまでもなく)が総合的に分析検証される場所はなかったと言える。

フーバー長官指揮下のFBIは大戦下で米国共産党を監視したが、その結果得た情報を他の情報機関に全て開示しているというわけではなかった。1943年4月、FBI捜査官は現在稼動中のソ連側の諜報作戦と諜報員に関し本腰を入れて調査を開始した。ニューヨークのソ連領事館館員Vassili M. Zarubin(KGB高官、潜伏中の偽名はZubilin)がカリフォルニア州バークレーに居住する米国共産党幹部Steve Nelsonを呼び出した。ZarubinもNelsonも知らなかったが、FBIは何週間にもわたってNelsonを内偵中であった。Zarubinらの会話は捜査局による盗聴で筒抜けであり、会話の内容からZarubinがKGBでかなり重要な将校であることが推測された(この時点ではFBIはまだGaik Ovakimianの代りにKGBが米国へ送った上級潜入工作員がZarubinであることを知らなかった。 )FBIはこの日からZarubinを監視対象とした。1944年にZarubinが米国出国するまでである。この内偵調査で何百人もの連絡員や手掛かりが明らかになり、連邦捜査官はそれらを分類整理していった。

1943年8月、ロシア製のタイプライターで打たれた匿名の手紙が連邦捜査局の郵便受に届けられた。消印はワシントンであり、この手紙が捜査体制に更に大きな情報をもたらすこととなる。この手紙の差出人は匿名で現在に至っても特定されていない。この奇妙な手紙は北米地域に展開した10名のKGB将校、Zarubin、その他スパイ2名を非難したものだった。その内容は広範で記述も正確であり、捜査局はその手紙を本物であると直ちに判断したが、ソ連が米国の機密を日本に横流ししているとの主張を裏付ける証拠を見つけることは出来なかった。FBIは続いて、手紙に挙げられた人物について調査体制を増強し、特に注目したKGB将校Andrei Shevchenkoにはあ通常の二倍の内偵要員を投入した。しかしFBIは大戦終結後まで、その匿名の手紙を他の防諜/捜査機関に開示することはなかった。そして捜査官も匿名の告発者によって明言されたソ連将校を拘束しなかった。

核の時代

米国政府が運用していた戦時防諜体制はソ連諜報員に対し効力を発揮できなかったばかりか、機密保全を任務とする米国側各防諜機関にとっても不明瞭な体制で、各機関の効果的な運用を達成出来なかった。Steve Nelsonが捜査当局による取調べで最高度の機密であるマンハッタン計画について漏らしてしまうまで、FBIのフーバー長官は米国政府からその計画の存在を知らなかったと伝えられている。これに加えて、ワシントンにおける高度な政治的かつ戦略的意図によってソ連の潜入工作に対する米国側の防諜活動は阻まれることとなった。ルーズベルト大統領はどちらつかずで心許ないスターリン体制をヒトラー体制への防護壁として強化しようとした。大統領の側近も米国共産党を厳しく取締ったり、「共産党党員が米国政府機関に潜入浸透している」という巷間の噂を公式に捜査することはモスクワに対する敵対行為となるので、これを避けようとした。一方、FBIフーバー長官は米国共産党を注意深く監視していたが、少なくとも1945年までは、米国内におけるソ連当局者による活発な潜入諜報活動について強力な防諜対策の必要性をホワイトハウスに具申することはなかった。Donovan少将統括下にあるOSSも、1944年末に亡命したフィンランド人暗号解析者からソ連暗号の検証結果を入手したとき、対ソ防諜策強化に対する米国大統領サイドの消極性を目の当たりにすることとなった。Edward P. Stettinius米国務長官はOSSが入手した暗号検証文書はロシアに返却されたに違いないと主張する。事実、Donovan少将はホワイトハウスの指示に従い、フィンランド人による貴重な暗号検証文書を即座にソ連大使館へ返却した。

核爆弾開発の周辺に張り巡らされた謀略は、1945年当時におけるソビエト連邦の西側同盟国からの離反を象徴し、またその断絶を一層深めるものであった。ワシントンとロンドンは核爆弾を共同開発していたが、モスクワには共同開発について何も伝えていなかった。しかしスターリンへとつながるソ連側諜報ルートは連合国側各国の戦略計画とその目的を、諜報員からの内政、軍事、外交にわたる詳細な報告をもとに把握している。トルーマン新大統領が1945年7月に核爆弾開発を開示するずっと以前から、スターリンは核爆弾開発計画について知っていた。マンハッタン計画(コードネーム: ENORMOUS)に対するKGBの強固な意志は、ソ連の重点的諜報対象が推移したことを意味している。以前の米国は、ソ連にとってまず第一に対ドイツ戦に有効な情報をもたらす情報源であった。しかし今や米国はロシア人の目には、ライバルかソビエト連邦に対する脅威として映る存在となった。ソ連側諜報員は巨大なマンハッタン計画の複数の箇所に潜入浸透していた。ロスアラモスの研究施設だけで少なくとも四人の諜報員がLona Cohenなどの連絡員を経由し、ニューヨークのソ連領事館に報告を上げている。化学専攻の科学者であり、KGB要員のLeonid R. Kvasnikov(コードネーム: ANTON)がロスアラモスでの諜報活動を統括し、モスクワに情報を送っていた。

戦勝の後、米国のソ連に対する認識は変化しつつあった。1945年秋に発生した2件の寝返りで米国防諜機関は活気づくことになる。オタワのソ連大使館勤務であったGRU(ソ連軍参謀本部情報総局)暗号書記官Igor Gouzenkoが、ソ連の諜報活動がマンハッタン計画およびその他関係諸機関に浸透済みであることをカナダ当局に証言した。約半月後には、米国財務省、OSS(米軍戦時情報局: CIAの前身)、国防総省そしてホワイトハウスなど、各部署におけるソ連スパイの潜入実態がElizabeth BentleyによってFBIに明らかにされた。BentleyとGouzenkoの証言はどちらも、Whittaker Chambers(TIME誌編集者であり、前述GRUのエージェント)がFBIで1942年に語り、そして再度1945年5月に詳述した内容と逐一符合する。1945年11月半ばまでに、ホワイトハウスはソ連側から転向した2名の証言概略を把握するとともに、このBentleyとGouzenkoによる米国内政府高官の国家反逆行為告発が米国政府幹部要員数十人に及んでいることを確認した。ソ連からの転向者であるBentleyとGouzenkoの告発によって、ソ連スパイとして動いた米国政府高官には、ホワイトハウス補佐官Lauchlin Currie、OSS補佐官Duncan Leeや財務次官補Harry Dexter White(ハリー・D・ホワイト)らが含まれていることが明らかになった。

1946年7月に発行されたGouzenko事件に関わるカナダ政府公式報告書は、ソ連の戦時諜報活動に関わる報道機関の警告を追認するものであった。ソ連諜報活動について連合国政府が初めて公式に言及するのは、このカナダ政府報告書が最初である。噂でのみ語られていたソ連による潜入工作の実在を西側政府が公式に認めたことで、共産主義は西側社会の許容範囲を逸脱した。トルーマン大統領は諜報活動、潜入工作や治安維持について、政府規模で取締りを強化する必要性を認めるに至ったが、疑わしい民主党幹部に対する魔女狩りのような拘束や米政府関係者およびルーズベルトのニューディール政策に対して絨毯爆撃のように起訴を繰り返すことは容認しなかった。西側政府が法廷に持ち込める十分な証拠を揃えるまで当面の間、GouzenkoとBentleyが具体的に名指しした人物に対しては重要な国家機密からの遮断以外に殆ど何も対策が採られなかったに等しい。

しかし国内における政治力学によってホワイトハウスは行動せざるを得なくなった。1946年米国連邦議会選挙に伴う政治運動で共和党は、民主党が共産主義者の米国に対する浸透工作を放置したこと並びに民主党の米国民に対する不誠実を責め立てた。こうした運動方針で、共和党が1931年以来の議会主導権を握ることになった。一方でトルーマン大統領は自らの政治的配慮に拘泥するだけであった。議会による恣意的な調査と共和党草案による手荒な愛国立法の抑制を期待して、トルーマン大統領は大統領指令9835に署名した。この大統領指令は戦時下における国家総動員体制を制度化するものであった。その内容はすべての連邦政府機関に「愛国者委員会」を設置し、職員が司法長官が指定する過激派組織に所属することを禁ずるものであった。

BentleyがFBIに詳細を密告し、違法な地下諜報網に風穴を開けたのはこの時期である。違法な地下諜報網とは、KGBもしくはGRU指揮下で活動するソ連市民が身分偽装して潜伏し、ソ連政府との関係を見かけ上は一切排除した地下組織のことである。多数のFBI捜査官が米国中に散開し、Bentleyが名指しした人物らを調査監視した。約一年ほどの間、FBIはBentleyをKGBに対する二重スパイとして運用できないか期待していた。

Bentleyの密告によって加速する捜査が政府内に知られ始めると共に、「Gregory(FBIが情報保全のため設定した「Bentley」を意味するコードネーム)」事件によって多くの手がかりが捜査当局にもたらされたが、ソ連諜報活動に従事した工作員を起訴することはなかった。FBI捜査官は盗聴内容を証拠として法廷に提出することができず、他で捜査進行中の機密漏洩につながるのでスパイを検挙することも制限された。そうするうちに、ソ連の諜報員や諜報将校達は自分たちの身分や活動に関わる重大な機密が米国側に漏洩しているのでないかと憶測するようになった。Bentleyの証言に基づいて多数の人物が参考人招致される連邦大陪審に先立って、ソ連側諜報員達は1947年の内に会合を持ち、口裏を合わせることができた。

ほぼ同じ頃、改称された「陸軍安全保障局(ASA、元SSA)」がBentleyの証言と1943年に差出人不明で届いた手紙の告発内容を裏付けることになる。大戦後にアーリントンホール(ASA、元SSA)の「ロシア課」は拡大され、外交電文解析作業のために多くの技術者や暗号解析者が増強されていた。日本の暗号電文を重点的に解析したSamuel Chewや、ドイツと日本の暗号電文に集中したMeredith Gardnerの功績は大きい。Chewは符号化されたロシア語伝文の基本的構造を突き止めつつあった。Gardnerとその同僚はKGB符号表を分析的手法で再構成していった。1946年の後半、Gardnerはアルファベットを変換する"文字つづり表"を解明した。この"文字つづり表"の解明によって、ASAは暗号伝文中に含まれる人名などについてかなりの量を判読出来るようになった。程なく、Gardnerはマンハッタン計画に関わる著名な原子力科学者の氏名をソ連暗号伝文中に複数人見出すことになる。その暗号伝文は1944年に発信されたものであった。

これ以降、Gardnerの仕事は迅速であった。1944年と45年にモスクワ-N.Y.間で交わされた伝文を読み込み、米陸軍省参謀本部の軍事機密を入手するためにソ連スパイが米国に潜入したことを暗示する伝文を1947年5月に発見した。米国内におけるソ連KGBなどの大規模な諜報活動の実在は、もはやGardnerにとって明白であった。

ここで一つ問題が生起する。暗号文の山からGardnerが見つけ出したこの驚くべき事実をどのようにして、誰に伝えるかということである。ASAにおける通常の報告手順に従うことは適切と思われなかった。なぜなら、情報源を秘匿したまま解読文を開示できなかったからである。この時点でGardnerを含むASAは、Bentleyやソ連諜報組織からの転向者、亡命者らがFBIで指弾した諜報活動や国家反逆行為を調査するために連邦大陪審がマンハッタンで開かれている事実を全く知らなかった。よって、FBIとASAという米国政府内で隣接する二つの捜査機関がソ連諜報活動の証拠を握っているのに、それを知る者は米政府内で誰もいなかった。1947年夏、Gardnerは事態を自分一人で処理した。ソ連暗号解読の成果を"特別報告書 その1"にまとめて、ASA上層部に配布したのである。Gardnerが報告書に記述した下記の断片的な解読成果が、米国にとって重大な国家機密の漏洩であるという深刻な事実をその時点で知る者はなかった。

LIB??(LIEB?)もしくはLIBERAL - 1944年9月29日までANTENKO(後でANTENNAと判明)
1944年10月22日から12月20日までに6回発生
11月27日の発信内容は彼の妻、ETHELに言及 - 29歳で結婚して5年(?)
「......夫の仕事とMETR(O)とNILの役割」

連携捜査

参謀第二部副部長Carter Clarke大佐は1948年8月末もしくは遅くても9月には、Gardnerによる"特別報告書 その1"を読み、FBI渉外担当のS. Wesley ReynoldsにFBIで把握しているKGBおよびGRU諜報員のコードネームの開示を要請した。ClarkeがKGBの暗号解読成果をほのめかしたので、FBIは興味をそそられたようであった。大戦中のソ連将校内偵結果およびBentleyやその他転向者による告発は、米国内に居住するソ連諜報員の実在を示していたが、FBIはこの時点ではそれら諜報員がまだ米国に潜伏中であると確信するに至っていなかった。FBIは直ちに200名ほどのコードネームリストをASAに送った。そのリストにはGardnerの解読結果と重複する名は殆ど見られなかったが、長期間に渡って連携することとなる捜査機関(FBI)と情報(諜報/防諜)機関(ASA、後にNSAへ統合)によって、半世紀後には「ヴェノナ」として有名になるプログラムが、この時点で開始されたと言ってよい。連邦捜査官と暗号解析官の協力関係は現在も持続している。

しかし、政府内で防諜/捜査諸機関の完全な協力体制が確立されるのはまだ数年先であった。関係諸機関から毎日ホワイトハウスへ送付される報告書が未開封のまま照査されることもなく溜まっていくのを不快に思ったトルーマン大統領が諜報戦略情報の大規模な共有統合を提唱した。1945年のことである。彼が企図した中央戦略情報群(CIG)は防諜機密や戦略機密の効率的な処理を目的としたが、その体制は遅々として進展しなかった。米国の情報機関は全体的に大統領やその補佐官達へ防諜情報やそれに関する分析をプレゼンテーションする点で余り良い仕事したとはいえない。例を挙げれば、フーバーFBI長官は共産主義者の策略やソ連側諜報活動について頻繁にホワイトハウスへ報告を上げていたが、それらの報告のうち何件が実際に大統領まで届いたか、また大統領補佐官たちが報告書をどれだけ真剣に捉えたか、は不明なままである。

トルーマン政権下における諜報組織の再編が断片的でほとんど停滞したままであるにも拘らず、防諜組織間の分業体制は第二次大戦初期に比べて大きく進展していた。新しく設立された「国家安全保障会議(NSC)」で、国内治安と国内防諜体制の維持を引き続きFBIと軍部の管轄とすることが決定された(NSC-17/4と17/6、1949年)。「国家安全保障会議(NSC)」に加わっていない組織はNSCに情報提供ができるだけで、国内治安維持に関わる作戦行動に参画することは出来なかった。新しく設置された中央情報局(CIA)はOSSやCIGに組織的に最も近く、それらを継承する機関であり、機密保全についてはOSSの芳しくない評判も結果的に引き継ぐことになった。この時点で、Gardnerらによるソ連暗号の解読成果をCIAが目にすることはなかった。が、前身の一つであるX-2支局に比べて、CIAの防諜幹部にはより多くの「通信諜報」成果を共有することが出来た。また、米陸軍と米海軍の合同機関である「合同防諜戦略情報センター(JCIC)」にもCIAは一時的に参加し、当時最新の諜報機密を得ようとした。これは戦時中のX-2支局による「ULTRA」レポート利用を活動モデルとしていた。Clarke大佐がFBIに接触したのと同じ頃、JCICはGardnerの"特別報告書"を入手した。しかし、FBIはJCICに参加したり、ソ連暗号解読について協力体制を敷こうとはしなかった。1949年初旬にJCICがGardnerの新たな暗号解読成果について情報開示を要求した時、Gardnerの上司であるClarkeは明らかに何も情報を提供しないように指示した。ソ連の諜報活動や暗号解読で得られた戦略情報の統合運用にはこのように派閥主義が渦巻き、人員不足にも悩まされていた。よって「戦略情報の総合的な分析運用」という目標は達成されたとは言えない。その後数年間、捜査上の大きな負荷をFBIが担うことになる。部門間の調整役として最も重要な任務がFBI特別捜査官Robert Lamphereに与えられたのである。

「私は敵の玄関口に気付かれず忍び込んだようなものだった」とLamphereは捜査時の記憶を手繰る。1948年春、LamphereはWesley Reynoldsと共にASAとの連絡任務に就き、その年の10月にはMeredith Gardnerと私的な会合を持った。そして「VENONA」プロジェクトにフルタイムで関わることになった。FBIがASAの解読結果をソ連の諜報活動に対して有効活用できるようになったのはLamphereの忍耐と執念の賜物である。Lamphereを通してFBIは解読成果だけでなく、ソ連潜入工作に対するGardnerの考察なども知ることが出来た。Gardnerらの部署は見返りとして、更なる証拠、ソ連諜報員の身元情報や新たな手がかりなどをFBIから入手した。FBIとASA二者による共同の検証作業は様々な仮定や矛盾する前提と入手済みの証拠を逐一照合していくもので、この作業から得られた成果は非常に大きいものであった。

Lamphereが解読結果を捜査で利用し始める頃には、「国家に対する忠誠」や「ソ連の仕組んだ赤い罠」などについて米国社会全体を巻き込んだ論争がますます過熱し、米ソ関係緊迫という状況が形成されつつあった。1948年7月には、「著名な米国人が反愛国的な活動をしている」という申立てが大衆に暴露された。Bentleyが下院の反米活動監視委員会(the House Committee on Un-American Activities=非米活動委員会)で話したのである。中でも彼女の証言は、Lauchlin Currie(米大統領補佐官)が米国のソ連暗号解読作業に圧力をかけて妨害しようとしたことを詳細に指摘していた(ASAによる暗号解読作業が公式の場で暗示されたのはこれが最初かもしれない)。2,3日後にはWhittaker Chambersがルーズベルト政権下の高官、Alger HissとHarry Dexter Whiteが「隠れ共産主義者」であったことを指弾した。告訴された人々による必死の否定とその支持者らによる支援は、燃え上がる論争に油を注ぐ形となり、ちょうどその年の秋口には選挙が迫って来ていた。共和党議員や共和党支持者はBentleyの証言を諸手を挙げて歓迎した。共産主義者による破壊活動に民主党が無関心であった(放置していた)事実は久しく隠蔽されていたが、その証拠が白日の下に晒されたからである。トルーマンはこのような批難をひどく嫌った。特にAlger Hissの件については、「共和党のでっち上げ」であるとさえ主張した。

トルーマンはAlger Hiss、Harry Dexter Whiteやその他の政府高官に対する告発を否定し続けた。彼らは、トルーマンが大統領執務室を去る1953年1月までに、ASAにおけるソ連暗号電文解読で特定された人物達である。トルーマンが「VENONA」文書解読成果について全く報告を受けていなかったか、報告されていてもその重要性を理解していなかったと推測できる。大統領が全く報告を受けていないというのは奇妙な話であるが、「VENONA」文書解読成果について大統領に報告があったことを示す証拠がないのである。どのような場合であれ、トルーマン大統領の言い分はいつも、「共和党は何でも"国家に対する忠誠"と結びつける」、「大戦下における潜入工作はそんなに深刻なものではなく、米国当局は十分に阻止した」というものであった。

1948年12月、SIMAというコードネームを持つソ連側内通者(工作員)Judith CoplonがFBIによって特定された。1944年にソ連によってリクルートされた若い司法省外国エージェント登録局(米国政府以外から資金提供を受ける、もしくは米国以外の政府の利益のために活動する組織を登録する部署)の職員である。Coplonはおそらく「Venona」文書解読成果を手がかりとして逮捕された最初の容疑者である。FBI捜査官はCoplonと国連職員として潜伏していたKGB幹部を1949年3月、同時に拘束した。このKGB幹部と接触中のCoplonがハンドバッグに機密文書を忍ばせていたことが彼女のスパイ行為の動かぬ証拠となった(この【機密】文書はFBIがCoplonのオフィスで彼女が盗むように仕組んだ囮の偽機密文書である)。フーバーFBI長官か、もしくは(可能性は低いが)より高位のトルーマン政権高官はFBI捜査官がCoplonの公判で「Venona」文書解読成果について証言することを禁じた。米国による暗号解読成果を保護するために、検察官や政府側証人は回りくどい、迂遠な表現を強いられた。Lamphere特別捜査官の証言を例にとると、「Coplonに容疑がかかったのは、信頼できる"秘密情報提供者"の情報提供の結果であって、盗聴によるものではない」などである。このような過程でCoplonに下された有罪判決は控訴審で覆る可能性もあったが、この後、他の諜報員に対して繰り返される公判においても、山のような証拠で隠蔽し、米国史上最高度の機密事項である暗号解読成果は秘匿された。

Coplonの公判過程によって、その後の2年間に集中する捜査から起訴への一連の作業パターンが確定することになった。Meredith Gardnerら(1949年5月より米軍保安局AFSAに支援される)がソ連側諜報員のコードネームや暗号解読成果などをFBIに提供し、LamphereらFBI特別捜査官らはその手がかりに基づいて裏付け捜査を行った。以下、捜査過程の一端を時系列に沿って記述する:


・1949年2月、「G某」が大戦中にワシントンの英国大使館に送られた英国外務省電報について言及する暗号伝文を傍受した。その当時はまだ、暗号中に見られる「G」、「GOMMER」、「GOMER(HOMERのロシア語転写)」等が、KGBに打電している同一の諜報員を指していることは、米国および英国の暗号解読者によって突き止めてられていなかった。しかし1951年5月初旬までにはFBIによって、これらコードネームの指し示す候補者リストの名前が一人に絞られた。英国外務省外交官Donald Macleanである。Macleanと同じく英国人Guy Burgessはすぐにソ連へ亡命せざるを得なくなった。

・1949年9月、「REST」および「CHARLS」というコードネームが戦時中のマンハッタン計画に参画した一人の科学者であることがFBIの捜査で判明した。物理学者であるKlaus Fuchs(ドイツ生まれ英国在当時、理論物理学者)である。彼の論文に言及する暗号電文も一件存在した。英国当局は1949年末に彼を尋問した。Fuchsが英国当局に吐露した情報によって、FBIは1950年5月22日、フィラデルフィアでHarry Goldを逮捕した。

・1950年2月、FBI特別捜査官Lamphereは「CALIBRE」というコードネームが、戦時下でマンハッタン計画進捗中のロスアラモス研究所に投入された中堅工作員ではないかと睨んだ。AFSAによるその後の分析とHarry Goldが提供した情報によって、David Greenglassが捜査線上に浮かび上がった。1950年6月15日、David Greenglassはソ連側工作活動に携わったことをFBIに認め、彼の義理の兄であるJulius Rosenbergの関与も自白した。

・1949年、[NICK」というコードネームを持つAmadeo Sabatiniという男が捜査線上に浮かび上がってきていた。Amadeo SabatiniはKGB諜報員Morris Cohenとスペインで共闘した男である。SabatiniはCohenについて黙秘していたが、FBIの捜査をJones Orin Yorkに向けることになった(ほぼ同時期に「VENONA」文書解読過程で「NEEDLE」というコードネームであったことが判明)。1950年4月の尋問でYorkは共に行動した作戦要員はWilliam WeisbandというAFSA(米軍保安局)の職員であると供述した。翌月にWeisbandは停職処分となる。

・1950年6月下旬、ニューヨーク在住の技術者Julius Rosenbergが、米国で科学技術上の機密を収集した諜報員(LIBERALとANTENNAというコードネームを持つ)に該当するとFBIが断定した。2通の暗号伝文は彼の妻Ehtelに言及していた。RosenbergはDavid Greenglassの証言に基づき事情聴取された。その後、尾行対象としてFBIの監視下に置かれたが、1ヵ月後まで逮捕されることはなかった。

1949年から1950年の間に、1944年発信の伝文を解読し、ハーバード大学で物理学を専攻する学生Theodore Alvin Hallに対するソ連側諜報組織の工作活動を突き止めた。その後まもなく、FBIは他の伝文で使用されたコードネーム「YOUNGSTER(MLAD)」がHallに当てはまると特定し、1951年に捜査官がHallを尋問したが、Hallが起訴されることはなかった(起訴されなかった理由として、Hallのスパイ行為を立証するには「VENONA文書」とその解読成果の開示が不可欠であったからと推測される)。

暗号解読によって、Elizabeth BentleyとWhittaker Chambersによる告発内容が裏付けられた。1950年6月までには、KGB発信の伝文に現れた「ALES」というコードネームは、前国務省補佐官であり現在偽証罪で服役中のAlger HissであるとFBIは特定した。同じ頃、Lamphere(FBI捜査官)はGardnerに、コードネーム「JURIST」は前財務省次官補Harry Dexter Whiteであるという事実を伝えた。Harry Dexter Whiteは1948年8月に米下院反米活動監視委員会でWhittaker Chambersの告発内容を否定した直後(3日後)、心臓発作で急死している。2,3年の後には「VENONA」文書解読によってもう一つの驚くべきスパイ事件が明らかになった。FBIによって「MARQUIS」というコードネームがJoseph Milton Bernsteinであると特定されたのである。Joseph Milton BernsteinはGRU諜報員であり、米太平洋問題調査会と「Amerasia(共産主義者の【資産家】Frederick Vanderbilt Fieldによって創刊。主に極東問題について論じる)」双方の関係者であった。

双方の板挟み

KGBは相次ぐ告発、逮捕、起訴といった事態に驚いたわけではなかったが、モスクワの情報機関幹部はFBIやAFSAと同じジレンマに陥っていた。すなわち、米ソ双方が握る情報源(ソ連:米国潜伏の諜報員 / 米国:VENONA文書)の存在が漏洩してしまうことで情報機関の存立自体が危機に瀕する可能性を孕んでおり、余りに繊細、高度な機密に属するため取扱に非常な注意を要するという性質によってである。米国とその同盟国は容疑者を内偵する場合に慎重にならざるを得なかった。なぜならソ連側も同じく慎重になり、諜報員の曝露を避けるため何らかの防護手段を講じている可能性があったからである。

William Weisband(ソ連側諜報員:ロシア系ユダヤ人、1920年代に米国移住、1938年に米国籍取得)がアーリントンホール(ASA/AFSA)のロシア課に着任した1945年より、ソ連がアーリントンホール(ASA/AFSA)ロシア課を監視下においていたのは確実と思われる。アーリントンホールロシア課で進捗するソ連外交通信解析作業についてWeisbandが最初期にソ連側諜報員として報告した内容はおそらく、米国によるソ連暗号解析の全体像を把握したものではなく、ソ連側暗号が解読され米国に逆利用される可能性についてはモスクワに十分な警告を与えるものではなかったであろう。1947年までにはアーリントンホールに解読可能な伝文群が全て移管されたので、同年までにはWeisbandがKGB暗号伝文が解読されいることを報告した可能性もある。いずれにしろ、米国によるソ連暗号解読成果の概略をWeisbandが掴みかけたところに、英国人外交官Kim Philby(ソ連側諜報員:後に「ケンブリッジ5」として知られる英国人ソ連側諜報員5人組の一人)が米国情報機関の連絡員としてワシントンの英国大使館に着任した。1949年秋である。Philbyは米国情報機関から通常の解読法による解読成果とその分析レポートを職務上誰に憚ることもなく易々と入手した。

Philbyの時宜を得た報告によって、KGBは何人かの重要な諜報員や作戦を保護することができた。1949年10月、Klaus Fuchsと関わった米国在住諜報員達にメキシコへ高飛びするようモスクワから勧告があったことは多くの状況証拠から見て、ほぼ間違いないと思われる。この結果、MorrisとLonaのCohen夫婦、諜報幹部の"MARK"など何人かの諜報員は米国のKGB諜報員達に対して狭まりつつある包囲網をすり抜けることができた(Cohen夫婦は1961年英国で収監される)。

「William Weisband」とは誰だったのか

1950年、Jones Orin York(コードネーム: NEEDLE)はFBIに1930年代半ばよりKGBに機密を横流ししていたことを認めた。西海岸の航空機関連企業の従業員であるYorkが言うには、1941-42年におけるKGB側統括者はBill Weisbandであり、Yorkが文書撮影のためにカメラを購入する時にWeisbandが援助したとのことである(a)。

最も機密度が高く、要員の選定、身元調査も慎重を期すべき米軍保安部(AFSA)にソ連のモグラ(スパイ)が紛れ込んでいるというのは不快な事実である。Weisbandはロシア人の両親の元、1908年エジプトで出生している。Weisbandは1920年に米国へ移民し、1938年に米国籍を取得した。1942年には米陸軍通信傍受部(SSA)勤務となり、北アフリカとイタリアで通信諜報や通信機密保全の任務に就いた。ここでの任務を通じて、複数の重要な【友人】を得ることになった。この後にアーリントンホール(SSA)ロシア課勤務となる。明るく社交的で人当たりの良いWeisbandは暗号解析者としてではなく語学担当要員(流暢なロシア語を操ることができた)として、アーリントンホール(SSA)ロシア課の全作業を知ることができる立場にあった。Meredith Gardnerは自分が1944年12月のKGB暗号伝文から欧米の原子科学者の氏名を抽出する作業を、Weisbandが注視していたことを記憶している。

Weisbandがソ連による潜入諜報工作とのかかわりを認めることはなく、米政府がWeisbandを起訴することもなかった。Weisbandは国家反逆容疑でAFSAの停職処分中、共産党活動に関わる連邦大陪審の聴取に出席するひつようがあったが欠席した。この結果1950年11月、Weisbandに法定侮辱罪で懲役1年という判決が下された。彼は1967年に急死している。

VENONA文書の中にWilliam Weisbandとの明確な関係を示す文書はない。しかし、「ZVENO(ロシア語でlinkを意味する)」というコードネームに言及する伝文は3通存在する。解読済みのVENONA文書で時系列上最も古い伝文は、ロンドン滞在のKGB諜報員がイギリス赴任待ちの「ZVENO」と連絡を取るための手段について言及している。解読された1通の暗号伝文によると、「ZVENO」はヴァージニア州でイタリア語研修課程を修了し、7月中旬までには英国に出航予定となっている(b)。NSA(米国家安全保障局)の記録によると、Wesbandはアーリントンホールでその6月に語学練成課程(おそらくイタリア語)を修了し、7月17日に出航し7月29日にロンドンへ到着している。

(a) YorkがFBIの尋問で語った内容は以下の文書で参照できる:
ワシントン支局覚書「William Wolf Weisband」1953年11月27日 文書番号34

(b) 「ニューヨーク981よりモスクワへ」1943年6月26日。この暗号伝文が完全に解読されたのは1979年である。

潜入工作員として国家反逆行為に従事した政府職員や高官らに対する起訴、公聴会が集中豪雨のごとく米国内で同時発生し、社会全体に非難と疑念が渦巻く状況が形成された。後の世で「赤狩り」と呼ばれる時代の始まりである。このような米国社会全体が共有する感情は、共和党議員が東欧と支那(China)の共産化を許してしまったトルーマン政権の失策を厳しく指弾するときにも色濃く反映された。国際共産主義への「弱腰」もしくは「容認」はトルーマン政権の特徴であったが、「家で惰眠を貪った当然の結果である」と共和党議員に酷評された。米国内では国内治安/防諜(反共)体制を意図的に無視したのではないかというトルーマン/ルーズベルト両政権への抜きがたい疑惑が形成される結果となり、戦時下のアメラジア事件 【1945年OSSの指摘、FBIの捜査により発覚。OSS[米国戦時情報局]職員が自分が1944年に執筆した機密文書の流用を1945年1月「アメラジア」誌上で発見。米国国務省、米国海軍将校、米国共産党書記長、支那系共産党員を巻き込んだ大規模なスパイ事件。1946,50,55,56,57年に米国議会によって調査】 の民主党主導による隠蔽工作の発覚時に世間の非難をより激しいものにした。1953年にはアイゼンハワー政権下の司法長官Herbert Brownellが、1946年にHarry Dexter Whiteに関してFBIから警告があったにも関わらず、これを無視したトルーマン前大統領を非難する事態に発展した(c)。支那を共産主義勢力の手に渡してしまった国務省潜伏の極左官僚へ集中する米国民の怨嗟、自らの背信行為に対して浅薄な言い訳を繰り返す政府職員と彼らに対する米国民の非難、憤激 - これら混沌極める世情の中で共和党上院議員Joseph McCarthyらは用意周到に動いた。「ヴェノナ」計画による暗号解読成果を秘匿しておくという暗黙の了解により、米国は政治的、社会的な犠牲を強いられる結果となった。ソ連潜入工作の深刻度に対する議論は、米国内で信頼できる情報源が失われてしまったことから、米国社会全体を二分した。反共主義者は、米国政府が把握しているスパイなどでもまだ米国社会の広範囲に渡って残存している可能性を疑っていた。一方、政府による愛国キャンペーンを批判する勢力は、容共論者がスケープゴートとして吊るし上げられる結果とならないか、危惧した。彼らは、Julius RosenbergやJudith Coplonらの容疑や捜査結果詳細の全てが米国々民に知らせているわけではないという事実を敏感に察知していたのかもしれない。しかし、国際情勢がますます緊迫していく中、当時の米国政府が知り得た情報を元に決定した「ヴェノナ文書秘匿を継続する」という判断に不合理な点はない。朝鮮戦争の激化に伴い、対ソ宣戦布告の可能性が現実味を増しつつある状況で、米国がソ連に対し保持している暗号解読上の優位性を情報開示によって台無しにはできない、という見解は当然のごとく米国軍事/情報部門指導者のほぼ全員が共有していた。たとえ、モスクワが米国による暗号解読を察知していたとしてもである。

(c) 1953年11月の非難について、Brownell司法長官はアイゼンハワー大統領の承認を得ていた。司法長官も大統領もHarry Dexter Whiteに言及する暗号文書の解読結果に間違いなく眼を通していたと思われる。実際に、アイゼンハワー大統領は1947年の陸軍参謀総長時代に参謀第二部(G-2:諜報担当)より報告を受けていたはずである。FBIがHarry Dexter Whiteについて警告した内容は以下の文書で参照できる:
「HooverからVaughanへ」 1946年2月1日、文書番号16。

米国による対ソ防諜戦術の変化に伴って、米国共産党にかかる政治的かつ法的な圧力が増大した。この時に制定された二つの法律で米国司法省は米国共産党を弱体化に追い込むことができた。1949年から1957年の間に、外国人登録法(スミス法として知られる)によって米国政府は10人以上に及ぶ米国共産党の最上位指導者らに武力による政府転覆を目論んだ罪で有罪判決を下すことができた。引き続き、トルーマン大統領の拒否権を覆して米国連邦議会が緊急拘禁法(Internal Security Act: マッカラン法として知られる)を可決した。これによって共産主義および共産主義者の関わる組織には政府登録が課せられ、緊急時には潜伏するスパイや工作員の拘束が可能となった。

上記二法案およびその他の的確な政府措置により、1951年頃に米国共産党は部分的に地下組織化することになる。米国共産党幹部達はこの動きを党中枢保護のためにやむを得ないものと考えたが、実質的には米国共産党の弱体化に拍車を掛けることになった。これに加え、ソ連のNikita Khrushchev(フルシチョフ)書記長が1956年に発表したスターリン批判によって、米国共産党内部での議論や士気が消沈し、更なる脱党者が続出することになった。ソ連の諜報幹部達が、厳密な監視下に置かれている米国共産党解体へと舵を切ったことは明白であった。ソ連からは諜報員へ、米国共産党関係者とのあからさま接触を避けるように指示が下った。1953年までにFBIは、米国共産党がもはや潜入諜報工作の深刻な脅威ではなくなったと判断していたが、米国共産党という組織自体については、新たなスパイ獲得の潜在的温床である、と見なしていた。しかし、ソ連の外交官や国家自体に対する集中的な調査や内偵にもかかわらず、公的な身分を保証されて米国に滞在するKGBやGRUの諜報将校らが、米国内で工作員と接触したり、米国内で有形無形の影響力を行使しようとする試みが中止されることはなかった。

その後の「VENONA」

戦時暗号伝文解読のための共同作戦はその後何年も継続されたが(解読成果の多くは1960年代から70年代の内に開示されるはずだった)、「VENONA」解読によって割り出せる米国潜伏のソ連諜報員数は1950年代当時で既に減少してきていた。その結果としてCIAが「VENONA」計画に積極的に参画していくこととなる。1952年のFrank Rowlett(暗号開発者: 第二次大戦中、SIGABA暗号機を設計)CIA着任後、海外諜報部門と防諜部門から選抜された職員に「ヴェノナ」解読成果の使用が許可された。目的は、スターリン死後に亡命してきたKGB幹部やGRU将校の供述を確認/照合するためである。亡命者や転向者の証言はかつて米国防諜諸機関にとって、ソ連諜報工作に関して比較的新しい情報を提供してくれる第一級の情報源であった。米国の防諜担当者の作業は、亡命者や転向者の証言をそのまま捜査に利用するという作業から、その証言を「VENONA」解読成果や関係諸機関からの情報と突き合わせて世界規模で展開するソ連諜報幹部の洗出し作業へと次第に推移していった。このようにして「VENONA」文書は米国の防諜関係者にとって捜査や内偵の道筋を決める大きな判断基準となっていった。

1957年は再びスパイ事件によって報道が過熱する年となった。早速この年の1月からFBIの捜査陣も殺気立つことになる。FBIが10年以上掛けて追い続けてきたソ連側諜報員Jack Sobleとその一味を、二重スパイBoris Morrosの報告を基に拘束したのである。Jack Sobleは1943年4月にVassili Zarubinと行動を共にしているところを、FBIによって現認されていた。さらに重大事件は続発する。同じ年の春には絶妙なタイミングで亡命事案が発生した。不法滞在のソ連諜報員Reino Hayhanen中佐が諜報員としての信用度と能力に疑念を抱かれてニューヨークからモスクワへ送り返されることとなったが、Hayhanen中佐は自国で待つ懲罰を恐れてパリのアメリカ大使館に駆け込んだのである。Hayhanen中佐は彼に指令を与える上司の名前は「Mark」という通称以外に知らなかったが、この「Mark」という得体の知れない男が常駐するブルックリンのアジトについて米当局に詳しく供述したのである。FBIの尾行も巧みにすり抜ける【玄人】である「Mark」の滞在するホテルにやっと踏み込んだときには、工作員を通じて極秘に入手した機密文書や諜報に必要な道具などが見つかった。「Mark」として知られるこの謎の男は1957年6月に逮捕され、「Rudolf Abel大佐」と自分の氏名と役職を名乗り、それ以外は捜査への協力を拒絶した。この男の実名は「William Henry Fisher」であり、英国生まれのKGB上級幹部である。米国には1948年に潜入した。Abelの逮捕によって米国史上初めてソ連による国内諜報活動が摘発されたこととなる。Abelは潜伏諜報員の大物、Iskhak A. Akhmerovの後継者として派遣されていたのかもしれない。

FBIにとって多忙を極めた1957年はニューヨークのGRU潜伏(違法)諜報員、Walter Tairovと Margarita Tairovに対する捜査で暮れた。だが1958年早々に、Tairov夫婦は忽然と姿を消す。夫婦が米国を脱出したのは明らかだった。この二入組に関する捜査は米国防諜/捜査機関がGRU潜伏諜報員に対して展開した最初の作戦行動である。東独のGRUにCIAが独自に潜入させていた諜報員によって、夫婦の片割れを欧州で捕捉した。CIAの潜入諜報員として東独のGRUに勤務していたPyotr Semyonovich Popov中佐から報告があったからである。Tairov夫婦に対する内偵調査はGRU/Popov中佐とCIAの共同作戦であり、これによって防諜作戦上多大な収穫を得ることとなったが、Tairov夫婦もほぼ間違いなく米国側の内偵を察知していたはずである。この夫婦の突然の逃亡と彼等による密告で、不幸にもCIA諜報員であるPyotr Semyonovich Popov中佐(GRU)はソ連に逮捕された(1960年処刑)。

1957年に頻発した重大スパイ事件の背後にある真実(「VENONA」計画)を知っていたのは、ごく僅かの米国情報機関幹部のみであった。打ち続くスパイ事件の捜査/作戦上で、「VENONA」計画が直接寄与したものは一件だけである。少なくとも米国内における対ソ防諜作戦はソ連側諜報員の内部告発や密告に頼らざるえない状況にあった。1957年の時点で「VENONA」から得られる情報がほぼ出尽くしてしまっていたからである。これは米国情報機関の努力不足ということではない。というのも、NSAはソ連関係の通信を常時傍受し詳細に徹底検証した適切な判断の下に、「VENONA」解読班を縮小したからである。FBIも1957年6月にRudolf Abelを逮捕するまで10年以上の間、米国共産党内に潜入捜査官を投入し、不法滞在工作員を追い続けていた。CIAの展開した防諜工作はまず、海外に点在するソ連諜報施設を掌握することであった。この一見回りくどく見える作戦には、ソ連諜報将校の亡命を誘発させるという繊細な目的(REDCAP計画)と米国に不法滞在するソ連工作員の郵便物を監視下に置くという目的(HTLINGUAL計画)があった。こうした地道な努力とは裏腹に、1950年代後半に米国情報機関が入手した手掛かりはどれも決定的なものであったが、通りすがりの他人に与えられたようなものであった。すなわち、パリの米国大使館に駆け込んだソ連諜報員Reino Hayhanen中佐や1954年にウィーンで亡命したPeter S. Deriabin少佐(KGB)である。配置済みの米国側諜報員Popov中佐(GRU)やポーランド情報将校Michal Goleniewskiの功績も無視はできない。ここにおいて、米国の情報戦はVENONA以前がそうであったように、任意の捜査/内偵に頼ることになった。

「VENONA」に対する米国の方針は、情報機関上層部の中でも中枢に所属するごく少数の者にだけ開示する、というものだった。「VENONA」計画で解読が完了したソ連の暗号伝文は少量であったが、其処から読み取れる内容はCIAやFBIなどに、米国が晒されていた重大な事態を認識させるには十分なものであった。重大な事態とはつまり、1940年代のソ連諜報工作が巧妙かつ強引で高度な攻撃性を有していたこと、共産主義および共産主義者の米国政府や国民に対する浸透度は極めて深刻であったこと、そして戦時下においてソ連諜報員が米国内で行使した影響力の全貌にはまだ不明な点があったことなどである。後の西側諸国はソ連諜報工作の攻撃性や巧妙な侵略性が寸分も衰えていないことを身をもって知ることになる。米国情報機関幹部は、米国内におけるソ連の諜報作戦を内偵する防諜職員が不足しており、その防諜手段もソ連に比べて拙劣であったことを認めている。冷戦初期に試みたソ連政府関係者や不法滞在工作員の捜査は大部分が失敗に終わった。ソ連諜報活動について新鮮な情報を得る手段として、Anatoli Golitsyn、Yuri Nosenkoなどの亡命者やAleksi I. Kulak、Dmitri F. Polyakovなどの米国に寝返って隠密裏に米国の掌握下にある二重スパイ等に頼るしかないという状況は1960年代頃まで継続した。彼等のもたらす情報は重要なものも多かったが、時に西側情報機関関係者を空振りさせるものもあった。「VENONA」文書解読で西側諸国に対するソ連諜報活動の動かぬ証拠が明らかになったが、これは「人的諜報」がソ連の諜報活動において極めて有効に機能していたことの証左でもある。このように、「VENONA」文書解読でソ連が入手した豊富な収穫(米国にとっては苦々しいものだったが)をまざまざと見せ付けられていたので、CIAとFBIの対スパイ捜査員達は亡命者の情報を余すところなく調査検証した。

以上のような経緯から防諜上の新たな懸念が生起するまで(とりわけCIAにおいて)時間はかからなかった。米国及び西側情報機関に虚偽情報を掴ませるために、ソ連が亡命事件を偽装するという可能性である。こうした可能性は現代では在り得ないと見なされているが、当時において偽装亡命者入国という懸念を払拭することは困難な状況にあった。ソ連が自身の情報機関防護を目的とし、偽装亡命者投入で虚偽情報を西側当局に掴ませ撹乱させるという潜在的可能性を排除することも不可能であった。現代に於いてその可能性は否定されているが、1960年代当時の米国情報機関は偽装亡命事件の不可能性を躍起になって証明したり、ソ連の流す虚偽情報の影響を最小化することに多くの労力を割いた。

「VENONA」によって得られた情報を厳密に秘匿したまま、米政府は防諜対策を実行していった。その結果、米政府がソ連工作から保護しようとした防諜関係者自身によってその防諜対策の緊急度や必要性を疑われるような事態も散発した。「VENONA」解読成果に眼を通すことの出来た人間は、米国防諜機関上層部でもごく少数であったので、当時情報開示されなかった人物が1940年代のソ連潜伏諜報員について収集された情報の信頼性を的確に評価することはできない。よって、1940年代から50年代にかけて米国社会全体を席巻した国内治安に関する議論や防諜施策群を、経験豊かな米国側諜報員でも「マッカーシー主義者のヒステリー(赤狩りに執着した興奮状態)」と評する場合があった。こうした風潮は米国防諜機関関係者の一部にソ連の米国工作がもたらす脅威を過小評価させる結果となった。

Elizabeth Bentleyは彼女の 【活躍】 も影響し開始された「冷戦」の終結を見ることなく、1963年12月コネチカットで死亡する。彼女は「VENONA」について知ることも、彼女自身の証言が「VENONA」解読に寄与した経緯について知ることもなかった。生前においては、米国旧政権下で共闘した古き 【同志】 全員から裏切り者、嘘つき、犯罪者と非難され続けていた。彼女の証言について巻き起こった論争はその実、単なる小競合いと評価すべきもので、当時の米国が抱えていた問題の本質は、「ソ連の潜入工作による損害の精確な把握」と「国民の自由と国内治安の統制という相反する政策要件の狭間でいかに双方の均衡を保持できるか」ということであった。この度の「VENONA」文書公開で期待される効果は、米国社会における防諜上の不安定要素の迅速な把握と排除である。これらによって、新たに浮上してきたスパイの思想背景や人格を詮索するのではなく、決して表に出てくることはない彼我双方の防諜施策や政府指導者および情報機関の能力に関する具体的な国民世論の喚起が期待される。

おわり
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